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スリランカ:平和を求める5つの声

紛争の歴史を持つ国の最前線で、国連WFPスタッフが自らの役割を振り返る
, WFP日本_レポート
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「食料が不足している時には、人々の心にやすらぎはありません」-パスマラジャニ・パスマナタンさん(青いシャツ) Photo: WFP

この記事は、WFP 国連世界食糧計画が12月10日にローマで2020年ノーベル平和賞を受賞したことを記念したシリーズの一部です。Facebookの「The People's Prize」イベントを見るには、こちらをクリックしてください。以下、5人のWFPスタッフがそれぞれの経験を語ります。

パスマラジャニ・パスマナタン、プログラム・アソシエイト

私にとっての平和とは、心が澄んだ状態で眠りにつくことができ、翌朝には食卓に並んだ栄養価の高い食べ物を心に描きつつ、心の平安を感じながら目覚めることです。

1983年から2009年のスリランカ内戦時に国連WFPで働いていた当時の私の任務は、食料倉庫から紛争地域内の配布場所に至るまで、食料配布のあらゆる側面をカバーしていました。紛争地域に住む家族は、子どもたちに十分な食料を与えることができるかを常に心配していました。

食料不足の時には、人々の心には安らぎがありませんでした。脅威を感じ、お互いに争いを起こすようになったのです。食べ物が十分に確保できるようになると、人々は不安を感じることが少なくなり、平和に暮らすことができるようになりました。

私は国連WFPのプログラム・アソシエイトとして17年以上働いてきました。紛争時には、全国学校給食プログラムを支援する食料支援の監督者として、紛争地域内のキャンプで生活する避難民家族への食料供給を監督しました。

紛争中、国連WFP は妊婦、母乳育児中の母親、5 歳未満の子どもたちを対象に、補助食品や既製食品を提供することで、対象を絞った栄養支援を行いました。このようなプログラムはいくつかあり、深刻な苦難の中では見過ごされがちな特定の栄養ニーズを満たすことを目的としたものでした。

カルナダサ・リヤナゲ、ドライバー

スリランカの内戦中、北部の学校の敷地内に車を走らせていると、子どもたちが走って外に出て、駆け寄ってくるころ合いがわかるようになりました。

学校給食プログラムのために食料や調理器具の配布を開始して数週間もすると、国連WFPの車に描かれた大きな青いロゴを見かけると、小さな生徒たちの顔がパッと明るくなるようになりました。

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「仕事に行く途中で地雷が爆発するのを目撃したこともあります」 — カルナダサ・リヤナゲ Photo: WFP Sri Lanka

私たちは食料品と一緒に学校の教科書も配布しており、子どもたちは新しい本が届くのを待ちわびていました。私が地域の人たちに親しまれ、信頼される存在になるのにそれほど時間はかかりませんでした。

私は国連WFPスリランカで20年以上働いてきました。内戦の最中、北部州の紛争地域内に住む家族への食料や物資の輸送を担当しました。検問所や道路状況の悪さから、移動に6時間以上かかることもありました。

紛争地域での仕事はやりがいがあります。私は通勤途中に地雷が爆発するのを目撃したこともあります。この仕事に就いたとき、私は自分の人生を捧げる決心をしました。

それに伴うリスクは知っていましたが、全力で助けるのが自分の責任だとも思いました。

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2009年の紛争救済 Photo: WFP Sri Lanka

紛争地域内の脆弱なコミュニティを支援してきた私の経験によると、平和についての私の理解は、異なるコミュニティが団結して一緒に暮らすことができるということです。国連WFPのノーベル平和賞の受賞は、気候変動などの緊急事態における食料安全保障を強化することにより、コミュニティの団結を支援する国連WFPの能力が世界的に認められたものです。

また、大雨や干ばつが農村地域にどのような影響を与えるかを見てきました。人々は自分たちで食べ物を育てることができず、それが食料不安につながっているのです。紛争中、国連WFPは北部の家庭に米や砂糖、石油を支援しました。

この地域のほとんどの学校が学校給食プログラムの恩恵を受けました。また私たちは、トウモロコシを使った補助食品と学校の教科書を子どもたちに提供しました。

ムトゥクマル・アルルモリ、ドライバー

私が車列を率いていた時、何かが燃えているような匂いがしました。バックミラーに目をやると、暗くて灰色の雲がそれほど遠くないところで渦巻いているのが見えました。紛争地域に食料を届けた後、国連WFP事務所に戻る途中、地雷の爆発をわずかに避けて、九死に一生を得たと気が付いたのはその時でした。

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勤務初日に学んだことは、食料安全保障が平和の基盤であるということです-ムトゥクマル・アルルモリ Photo: WFP Sri Lanka

内戦の最中にスリランカ北部の州で仕事をしていたので、毎日が銃撃戦や爆撃に巻き込まれる恐怖の繰り返しでした。巻き込まれないよう、相当スピードを出したこともありました。その日、事務所に戻ったときは全身が震えていましたが、やらなければいけないことがあるので、あまりその事に心を悩ませることができませんでした。

北部地域での国連WFPのドライバーとしての私の優先事項は、26年におよぶ内戦の間、スタッフの搬送と日々の食料配達プログラムの支援でした。勤務の初日に、私は食料安全保障が平和の基礎であることを学びました。

穏やかで幸せな生活

それまでの私は、平和とは、暴力に怯える必要のない、争いのない自由であり、人々が安全に集まり、穏やかで幸せな生活を送れることだけだと考えていました。

私の役割としては、毎日搬送するスタッフの安全を確保することでした。当時、私たちの最大の関心事の一つは、M18クレイモア地雷を避けることでした。

スタッフの搬送に加えて、紛争地域内で生活する弱い立場に置かれたコミュニティへの食料配給サービスも担当しました。劣悪な道路状況と地雷に遭遇する危険性に直面していました。時間通りに倉庫に到着するためには、早朝に出発しなければならず、毎日82キロ近くを往復しました。

長い苦労の末…

食料配給サービスに長く携わっていたこともあり、すぐに地域の方々にも知られるようになりました。

多くの人は何ヶ月も前からこんなに大量の食料を見たことがなく、私たちの姿を見て安堵の涙を流す人もいました。

国連WFPのノーベル平和賞受賞は、私たち全員にとって誇るべき瞬間でした。

シバヨガン・アルジュン、サプライチェーン担当者

スリランカの紛争地域である北部州で仕事をしていた時、5歳未満の子ども3人を持つ若い母親に出会いました。彼女は夫の居場所を知りませんでした。母親である彼女は、仕事に出ることができず、非常に弱い立場に置かれていました。

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国連WFPは人々に勇気を与えた-シバヨガン・アルジュン Photo: WFP Sri Lanka

彼女の家を訪問したとき、私が気付いたのは、お米を一晩水に浸けておいて、翌朝、スライスした玉ねぎと一緒に食べるということでした。そして、残ったお米を水に戻して、翌日に食べるのだそうです。

私の平和への理解はここから来ています。平和があれば、人々は自由を手に入れ、基本的な権利を獲得することができます。この基本的権利の一つは、制限なく食料を入手できることです。スリランカでは26年におよぶ内戦の間、紛争地域内では食料やその他の必需品へのアクセスが制限されていました。

私は2005年に国連WFPに参加し、スリランカの現地事務所でプログラム・アシスタントとして働き始めました。スリランカの内戦時には、国連WFPの給食プログラムだけでも12万人の弱い立場に置かれた人々が支援を受けました。

ジャフナ地区には、国連WFPが調理済みの食事を配布する国内避難民のためのキャンプが13ほどありました。

国連WFPは紛争時に食料を支援しただけではなく、人々に勇気を与えてくれたのです。

ヤセル・アラファト、財務責任者

内戦時に国連WFPのナショナル・ファイナンス・オフィサーとして働いていた私は、自分の優先事項は現金給付の管理に限られていると考えていました。しかし、しばしば紛争地域に住むコミュニティの窮状に直接触れ、私は深い影響を受けました。

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2005年の津波の後から私たちは支援をしています-ヤセル・アラファト Photo: WFP Sri Lanka

スリランカ北部州で、国連WFPの現金配布所にお金を受け取りに来たお年寄りの女性がいたことを思い出します。

何度かお会いして、彼女ががん患者であることを知りました。孤児となった孫娘の世話をするだけでなく、彼女は医療費を国連WFPの現金支援に頼っていました。このような困難な時期に彼女のような人を一貫して支援ができたことを嬉しく思います。

私は国連WFPで15年近く活動してきました。長年にわたり、ミャンマー、ネパール、イラク、パプアニューギニアなど数カ国で緊急活動や開発に携わってきました。

私が経験したことから言うと、物資が誰でも簡単に手に入るようになると、平和に一歩近づくことができるのです。

国連WFPは、紛争や自然災害時に弱い立場に置かれた人々を支援する活動を行っています。2005年には、津波で被災したコミュニティへの支援を行いました。2009年には、26年におよぶスリランカの内戦が続く中、短期間で物資を集め、100万人以上の受益者を支援しました。