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8月19日は世界人道の日 スーダンで奮闘する日本人職員

8月19日は世界人道の日 スーダンで奮闘する日本人職員
, WFP日本_レポート

8月19日は「世界人道の日」。人を助けるということを考えよう、という日です。 WFPスーダン南・東ダルフール州地域事務所で勤務する職員、日比幸徳(ひびゆきのり)をご紹介します。

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ニヤラの事務所にて、WFPの業務用の車両の前で。©WFP/Adam Ali Omer

-スーダンではどんな仕事をしていますか?

2011年07月に南ダルフール州の州都ニヤラにあるWFP南・東ダルフール州地域事務所にプログラム・オフィサーとして赴任しました。ここでは150人を超えるスーダン人と12人の外国人職員が働いています。私は、紛争で住まいを追われた人たちへの食糧支援活動や学校給食プログラムを主に担当しています。

活動を計画するにあたっては次のような点をじっくりと考え、限りある支援食糧を最も効果的に配布するようにします。

(1) どこの誰に支援するか?たとえば、避難民キャンプで配るのか、それとも逃げてきた人がたくさんいる地方都市で配るのか?働き手がいる家庭も支援するのか、それとも母子家庭に限定するか。どのような人が一番困っているかを見極めます。

(2) いつ支援するか?毎月か、それとも備蓄していた食糧が底を尽きる時期だけか?

(3) どのような食糧をどれぐらい配るか?豆、栄養強化食品などさまざまな種類の食糧の中から支援対象やその時の食糧事情に最も適したものを選び、量を計算します。

(4) どのような形の支援にするか?学校給食か、母子に対する栄養支援か、それとも地域のインフラ作り工事に参加する報酬として食糧を配るか?

(5) 誰を通じて配るか?国際NGOを通じて配るのか、それとも草の根団体を通じて配るのか?

このような点をよく考え、最適な提案を行うのが私の仕事です。

私には4歳と2歳の二人の子どもがいます。残念ながら治安上などの理由からニヤラで家族と一緒に住むことはできず、妻と子供は東広島市に残り、単身赴任をしました。

開始から10年を迎えるダルフール紛争は最近になってまた激化しました。理由は、農地や資源をめぐる部族間のあらそいです。この状況 を自分の子どもに教えることは難しいです。ダルフール地方全体で2003年以降推定40万人が殺害され 、50万人を超える人々が住まいを追われてキャンプ暮らしをしている状況は、説明するには悲惨すぎる現状です。ただ、妻と子どもたちが暮らしている市(東広島市)の人口(19 万人)がほぼ自分の担当している学校給食の支援対象者数と同じなので、市役所の展望フロアに連れて行って、「ここから見える所で暮らす人と同じ人数に学校給食を配っているよ」と説明したりしています。活動の写真を多く見せるようにしています。

-仕事で一番大変なのはどんなことですか?

治安が悪く、行動が制限されていることです。職員は安全のため、自分で家を借りることはせず用意された宿舎に住んでいるのですが、宿舎内では「外を出歩かないこと」、「移動の際は車2台で必ず隊列を組むこと」「4WDには乗らないこと」(4WDは襲われやすいため)などの標語が掲示されています。

7月4日には私たちの宿舎近くで銃撃戦があり、行動制限はさらに厳しくなりました。治安が悪化する中で支援活動を計画通り行うのは大変ですが、現地職員が護衛を伴って食糧配給の現場をまわったり、配給後の状況をチェックしたりすることで、滞りなく行われています。

-どうやって国連WFPに入ったのですか?

2000年に岐阜大学でWFP事務局次長の講演を偶然聴講し、国連WFPのことを知りました。また、その際に国連WFPが試験的に新卒採用を行っているということを聞きました。

私は当時、日本の大学院の第一専攻が日本国憲法(第二専攻は国際公法)だったので試験資格の有無が不安でしたが、応募したところ採用され、博士課程前期を修了後に試験採用されることとなりました。通常は勤務経験がなければ雇用されませんので、新卒採用は例外的なことで、残念ながら今はこの制度はないようです。

2001年7月、WFPカンボジア事務所に赴任しましたが、それまでは一切、勤務経験もなければ海外留学経験もありませんでした。カンボジアでは緊急支援活動を担当していました。その後は、東ティモール、独立前の南スーダン、そして今の赴任地であるニヤラに異動しながら、イランでの地震被災者緊急支援(2003年12月)、モルディブでの津波被災者緊急支援(2004年12月)、ミャンマーでのサイクロン被災者緊急支援(2008年04月)にも携わりました。そして、東日本大震災の発生時には国連WFPが東北で支援活動を展開したため、それにも参加する機会を得ました。

-国連WFPで仕事をしていて一番感動したときの経験を教えて下さい。

東ダルフール州の紛争被災者の子どもたちが暮らす小学校に、学校給食プログラムのモニタリングに訪れた際に、将来の職業について個人的興味で質問したら、それまで遠巻きに見ているだけだった子どもたちまでが生き生きとした顔で「先生」、「看護師」、「ビジネスオーナー」と大きな声で教えてくれたことに感動しました。彼らは国連WFPの提供している学校給食を食べて学校に通っています。自分の行ってきたことの積み重ねがスーダンの子どもたちの未来につながっているのかも、とその時は強く感じて本当に感動しました。

-一番怖かった経験を教えて下さい。

2013年7月4日、私たちの事務所のあるニヤラの街で銃撃戦が勃発しました。深夜から近くで散発的に銃撃戦が行われていて、激化したので宿舎の中にある避難室に他10人の外国人職員と一緒に避難しました。外からは大・小混じった銃声が続きます。私たちが日頃から連携しているワールド・ビジョンという近所のNGOの事務所がロケット弾の被害を受け、職員が死亡、また同事務所の強奪が始まったとの報告も届きました。4m x 6mという狭い避難室でしたが、幸い同僚に恵まれパニックすることなく、平和維持活動(PKO)を行う国連・アフリカ連合合同部隊が救出に来るのを待っていました。

銃撃戦が沈静化したと思われたころ、PKO部隊の武装車両が宿舎前に到着したとの電話連絡を受け、防弾チョッキを身に着けて宿舎の外に出ました。ただし、車両の数が足りず、限られたスペースにぎゅうぎゅう詰めになっている最中、近くでまた銃撃戦が始まり車両が緊急出発せざるを得ませんでした。私はその際、トラックの荷台部分に飛び乗ることとなり、身を守る囲いが何もない状況だったため、今までで一番身の危険を感じました。

私を含め3名のWFP職員は無事PKO部隊のキャンプまで避難しましたが、残りの同僚は宿舎の避難室に戻りそこで一夜を明かしました。同僚を残してきてしまった後悔に眠れませんでしたが、翌日残りの同僚も無事PKO部隊のキャンプに避難できました。

今もまだWFP事務所から15キロほど離れたPKO部隊のキャンプでの生活を続け、事務所には同僚とともに通っている状況です。その道中も、最大限の注意を払って移動しています。

-人道支援者とはどういう人のことだと思いますか?

自分が他の人に本当にしてもらいたい扱いを、自分の損得を重要視せずに、他の人に行える人たちのことだと思います。そのためには、人道支援者は、他人に迎合しすぎないような強い意志を持っていなくてはならないと考えています。国連WFPで働く人道支援者であるためには、支援をする相手の方々が暮らす現場にできる限り足を運べるだけの体力と健康も備わっていなければならないでしょう。

-自分は人道支援者だと思いますか?

今はまだ自分の目指す人道支援者には至っていません。紛争、津波や地震被災者の避難先での暮らしを目にして感情が流されすぎてしまい、即時の食糧支援に傾いてしまうこともあります。時には国連WFPの都合を優先しがちになってしまうこともあります。ただ本当に必要な支援は支援を受ける人々の生命保持と自立につながるものであるはずで、依存を生むような形やWFPの都合優先の支援は慎重に臨むべきだと、自分に語りかけるようにしています。

自分の考えが必ずしも正しいとは思っていません。WFPでこれからも働くことで、自分の目指す人道支援者も変わっていくでしょうが、そこに近づけるよう同僚・上司・パートナー・支援を受ける人々から学び続けていくつもりです。