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【日本人職員に聞く】ミャンマー全土に広がる絶望と飢餓、日本人だからできることとは

国連WFPミャンマー事務所・藤原実紀さん(前編)

 2021年2月のクーデターを機に、食料不足が急激に深刻化したミャンマー。

ロヒンギャ族の住むラカイン州など従来の支援地域に加え、都市部でも日々の食事を満足にとれない人びとが急増しています。

2019年5月からミャンマーに赴任し、クーデター以降も支援を続けている日本人職員の藤原実紀さんに、現状を聞きました。

ラカイン州の州都、シットウェの支援物資倉庫にて ©WFP
ラカイン州の州都、シットウェの支援物資倉庫にて ©WFP

都市部に及ぶ飢餓 国民の4分の1が食料不足に

藤原さんはミャンマーの首都、ネピドーの国連WFP事務所で働いた後、現在はヤンゴンの事務所で、資金調達や広報を担う部署の責任者を務めています。

「ミャンマーは以前から、アジアで最も貧しい国の一つでしたが、クーデターを機に貧しい人がさらに貧しくなってしまいました」と、藤原さんは心配そうに話します。

 

クーデター後、地方では紛争が激化し、2022年1月の時点で新たに約40 万人の国内避難民が生まれました。 

さらに都市部でも諸外国の経済制裁の影響で経済情勢が悪化し、失業者が増加するなどして、食事に事欠く人が増えているといいます。

 

インフレによる原油や食料価格の高騰も打撃となり、2022年には国民の約4分の1に当たる1,320万人が食料不足に陥る見通しです。

藤原さんは「2008年に甚大な被害をもたらしたサイクロン『ナルギス』の時を超える、衝撃的な数字です」と危機感を語りました。

 

藤原さんはクーデター後、ラカイン州で9~10歳くらいの女の子に出会いました。紛争が激化して周囲で地雷が爆発し、母親は死亡、父親は盲目となり、女の子自身も片足を失いました。少女は「この体では仕事もできるかどうか…。どうやって生きて行けばいいか分からない」と話したといいます。

 

「ラカイン州には、若い軍人もたくさんいました。貧しさのあまり、食べために軍隊へ入る人が増えているのです。紛争は飢餓を生みますが、飢餓も紛争を深刻化させる悪循環が、ミャンマーでも起きています」

ラカイン州にて行われた国内避難民への現金支給 ©WFP
ラカイン州にて行われた国内避難民への現金支給 ©WFP

民主化が後退、広がる絶望

2011年以降、少しずつ進みつつあった民主化が、再び後退してしまったミャンマー。

「現状が簡単には変わらないことが次第に明らかになり、若者たちの間に絶望感と怒りが広がっています」と、藤原さんは言います。

国連WFPの現地職員も、一時は人によっては「How are you?」とあいさつするのがはばかられるほど、暗い雰囲気になってしまいました。

もしそんな声を掛けたら『I am not happy』と言われかねないくらい、強い怒りと絶望を彼らは感じていました」

 

ミャンマーの人びとは、総じてまじめで心優しく勤勉。現地スタッフにも優秀な若者が多く「締め切りなどをきちんと守る点は日本人に似ていて、一緒に仕事もしやすいです」

 

クーデター後、最初にオフィスに行った時、藤原さんは現地スタッフにどう声を掛けていいか分からなかったといいます。

すると彼らの方から藤原さんに近づき「大丈夫?」「ミャンマーがこんな事態になって、ごめんね」と、声を掛けてくれました。「悲しみと怒りを押し隠し、周りに配慮する部下の様子に心が痛みました」

 

現地スタッフの中には、藤原さんが「お兄さん」「お姉さん」と呼び、家族のように親しく付き合ってきた人たちもいます。

彼らが希望を失っていく様子、日々悪化するミャンマーの情勢、そして身近な人々の死を目の当たりにして、藤原さんまでもが意気消沈してしまう時期もありました。

「しかしある時、『これではいけない、外国人だからこそ暗闇に飲み込まれず、少しでも日々を明るく、ミャンマー人たちが前向きに暮らせるよう手助けしなければ』と思うようになったのです」

リモートワークではないときは、職場でお菓子を分けたり一緒に食事に行ったりなど、ちょっとした「明るい話題」づくりや、つらそうな様子の人にそれとなく声を掛け、話を聞くといったことを、心がけているそうです。

ラカイン州にて国内避難民に話を聞く様子 ©WFP
ラカイン州にて国内避難民に話を聞く様子 ©WFP

支援を受ける人びとの、尊厳を守る

「クーデター前、ミャンマーは『支援からの卒業』に向かって進み始めていました」と、藤原さんは振り返ります。

民主化が進んで海外企業の投資が増えるなど、経済も成長しつつあり、都市部の人びとは、支援に頼らずとも自立して生活していました。国連WFPも、食料を届ける人道支援から、自立支援や開発支援へ活動をシフトしようとしていました。

しかし今は「命を救う」支援を何より優先せざるを得ず、食料支援や学校給食支援など、困っている人に直接食べ物を届ける活動に注力しています。

 

ミャンマー人は人助けの精神が強く、たとえ自分が貧しくてもより貧しい人を助けよう、と考える人が多いそう。

「街でサービスを受けた時、チップを渡そうとしても多くの場合『いりません』と固辞されます。『ありがとう』と言われるだけで満足する人や、「徳を積む」という考えが根付いており、見返りを求めない親切心を持っている人が多いのです」と、藤原さん。

 

ただ助けてあげたい気持ちが強い分、自分が助けられることには不慣れなようです。新たに食料不足に陥った都市部の人びとの中には、支援を受けることを『申し訳ない、恥ずかしい』と感じる人もいるといいます。

 

「支援する側も『助けてあげる』のではなく、同じ人間として尊厳を守りながら、食料を受け取ってもらうことが大事だと考えています。また、支援対象者をきちんとアセスメントし、必要な人へ必要な支援を届けることも重要です

 

支援は「ミャンマーを気にかけている」証

ミャンマーでの国連WFPの支援は2020年、主にラカイン州、カチン州、シャン州等の少数民族の人びとら約100万人が対象でした。

それが2021年には最大都市ヤンゴン住民も含め約300万人に膨らみ、22年には約400万人に規模を拡大する計画です。ただ、7月までに必要な資金は、2022年2月時点でまだ約4割程度しか確保できていません。

 

ミャンマーの人びとにとって支援は「食料」や「資金」以上の意味を持っていると、藤原さんは感じています。

クーデター後、日本政府、そして国連WFP協会などを通じた民間の寄付者が、ともにミャンマーへの寄付を増やしたことについて、何人もの現地のスタッフから「本当にありがとう 」「日本にとても感謝している」と言われたからです。お礼の言葉には、口先だけでない熱意が込められていました。

ミャンマーの人びとが最も恐れているのは、国際社会から忘れられることです。支援が増えたことは、日本人が引き続きミャンマーを忘れずに見守っている、寄り添ってくれていることの表れだと受け止められ、心の支えを得た様子でした」

 

自分に今何ができるかと問うと、現地のスタッフたちからはしばしば「ミャンマーへの注目が薄れないよう、日本の人たちに、何が起きているか正しく伝え続けてほしい」とも頼まれるといいます。現地では報道が制限され、正確な情報が発信されづらくなっているからです。

「1人でも多くの日本人がミャンマーに関心を寄せ、支援に乗り出してくれることを願っています。私たち現地の職員も、今は目の前の命を救うのに精いっぱいですが、長期戦を見据えていずれは自立支援も始め、事態が明るい方へ向かうよう努力していきます

 

藤原 実紀さん

大学卒業後、客室乗務員として勤務した後、英サセックス大院修了。国連ボランティアおよびUNDPのインターン外務省非常勤職員などを経て、青年海外協力隊に入り、国連WFPマラウイ事務所に派遣された。その後、外務省のJPO制度で2019年5月からャンマーに赴任し、2021年6月から国連WFPの正規職員として勤務

 

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