自らの言葉で:脱出、切望、未来への希望の3つの物語
マリシュ・ジェームズ-ウガンダ、ビディビディ
「働くことが恋しい、豊かな土地が恋しい、弟と妹が恋しい。出発したその日から会っていません」
脱出
私は2016年8月6日に難民になりました。
政府と反政府勢力の2回目の戦闘が始まったときは南スーダンのジュバにいました。紛争中は生活がとても困難でした。銃撃で人が死に、飢えでも人が死んでいきました。安全な夜はありませんでした。暗闇の中、泥棒が民家や農場を襲い、終わりのない不安感が広がりました。
他に選択肢はありませんでした。去るしかありませんでした。私はウガンダに向かいました。
それでも恐怖はつきまとってきました。死んで横たわっている兵士、道端にある破壊された乗り物、その奥には屋根が壊れた空っぽの家。そして何もなくなり、誰もいなくなりました。私たちは誰の姿も見かけることなく何キロも歩きました。もう本当にだめだと思うこともありました。でも、最後にようやく神の力添えで私たちはウガンダにたどり着いたのです。
難民としての生活
ウガンダに到着するとすぐにUNHCRが私たちを迎えてくれました。国連WFPは食料を提供してくれました。また、私たちは土地(30×30平方メートル)、テントと家を建てるための資材ももらいました。
難民として生活することは苦しいものの、すぐに慣れます。でも、どうしても慣れることができないのは、ビジネスがなく、仕事を見つけてお金を稼ぐ機会もない状況にいることです。
恋しいもの
働くことが恋しい、豊かな土地が恋しい、祖国の人たちが恋しい。
弟と妹が恋しい。出発したその日から会っていません。
ジュバにある会社で一緒に働いていた友人たちが恋しい。何人かが亡くなったと聞いています。
1番の願い
近いうちに祖国に戻って新たな生活をスタートすることを願っています。若い世代の手本となる人物になりたいです。すばらしい写真家になりたいと考えています。写真に情熱を注いでいるのは、写真を通してコミュニティが声を上げることができるからです。
世界のリーダーたちと話ができるならば、もっとも伝えたいことは難民キャンプにもっと食料を提供してほしいということです。
人数が多く、自分たちで栽培するには食料が足りないのです。
次に伝えたいことは、もっと質の高い教育(特に中等教育)が必要だということです。
最後に、愛する南スーダンに平和をもたらすため、手に手をとって協力してほしいと伝えたいです。
チェクファ-バングラデシュ、クトゥパロン
「ネットワークが難民キャンプの女性に力を与えようとしている理由はこれなのです。女性が話し、声を上げ、正義を求めて戦えるように」
脱出
私はチェフカです。1989年2月9日にミャンマーのラカイン州、ブティダウンで生まれました。現在28歳です。2011年に結婚し、娘が2人います。上の娘は6歳で下の娘はもうすぐ2歳になります。
ミャンマーでの生活には安心も安全もありませんでした。命を守るために祖国からバングラデシュに移ることを決めたのです。2017年9月20日にブティダウンを出発し、バングラデシュとの国境に2017年の10月1日に着きました。旅路はひどいものでした。グループで行動している他の人々とともにジャングルで3晩を過ごしました。人生でもっとも困難な旅で、この先も忘れることはできないでしょう。
難民としての生活
バングラデシュの難民キャンプに到着すると、他の人たちが初めにしていたように、夫が小屋を建てるために土地を拓きました。多くのNGOや国連、バングラデシュ政府が人々に食料や物を配っているのが見えました。人々が難民キャンプで生き延びていくことに驚きを覚えます。私もNGOの支援に頼る難民の一人です。NGOからの支援を得るために様々な配給場所で多くの人、特に女性たちが並んでいました。
この状況を見て、教育を受けた一人のロヒンギャ女性として、仲間の女性に力を与えるために何かできるのではないかと考えました。難民キャンプで何人かのキーパーソンに会い、他の女性たちと共に、NGOや国連に頼らず自立するための方法を議論しました。
恋しいもの
ミャンマーにいる両親と兄弟が恋しいです。人権が恋しいです。そのため、他の難民キャンプにいる教育を受けた女の子と女性を組織し、他の文字が読めない女性たちが行動を起こすよう促しています。多くの女性が共感を示しました。自分たちの物語や記憶が似通っており、ミャンマーで同じように苦労してきたことに気が付いたのです。
一部の女性が難民キャンプで女性グループを作ることを提案してくれました。他の女性たちのサポートを得て、「ロヒンギャ女性のエンパワーメントとアドボカシーネットワーク」という名のグループを結成しました。中央委員会メンバーが20人います。難民キャンプの様々な場所に手を伸ばし、今やメンバーは400人になりました。
このネットワークの女性たちは国際社会に対し直接声を上げ広めることができるほど大変強いのです。グループの目的は、できる限り早くミャンマーに戻ることです。ネットワークが難民キャンプの女性に力を与えようとしている理由はこれなのです。女性が話し、声を上げ、正義を求めて戦えるように。
1番の願い事
私が求めているのは世界のリーダーたちが私たちの苦しみを知り、行動に移すことです。私はコミュニティと自分が正当に扱われることを願っています。そして祖国のラカイン州北部が平和になることを願っています。
アリ・バッラ -チャド、ジャバル
「自分が持ってきた中で最も重要なのは父の国籍、ロバ、そして子ども時代の思い出です」
脱出
2003年6月のことでした。紛争が村にやってきたとき、私はまだ12歳でした。家族と共に家を出て、18キロ東にあるアララという名の小さな町に逃げました。雨季で空は雲に覆われ、谷には水があふれていたため旅は大変困難でした。
約4カ月間アララに留まりましたが、紛争が私たちを追いかけ、追いついてきました。私たちは2003年末にアララを離れ、チャドとの国境を越えました。
また大変な旅路でした。全員が走り、隠れ、生き延びようとしていました。残念ながら途中で多くの友人を失いました。その中には敬愛する学校の先生もいました。
チャドのイレ・アボイ村に着いたときには食べ物を口にしないまま2日が過ぎていました。国境の安全な側にたどり着いたと思った途端に敵が村を襲撃し、恐怖の一夜のうちに多くの仲間が殺されました。私の友人の妹が胸に傷を負わされ、その間に友人の父親が殺害されたのを思い出します。
避難を始めて1年が経ったとき、国連がやってきて私たちをゴズ・ベイダに連れて行きました。私たちは救われました。
避難の間、私は暴力、レイプ、殺人などの様々な種類の人権侵害を目撃しました。私は不当な仕打ちを見てきました。そして国を離れた今も、その不当な仕打ちを受けたというひどい気持ちは離れません。まるで心の拠り所となる家がない状態で生活しているように感じます。
人間性も正義もなく、祖国が自分から奪い取られたように感じます。彼らは国を奪って、私を飢えと恐怖と危険の中に置いて行ったのです。
難民としての生活
2004年からジャバル難民キャンプに住んでいます。ここに着いた時にはまだ13歳でした。初めはとても大変でした。多くの人が病気で命を失いました。でも、何もすることができなかったのです。教育の機会もありませんでした。
自分が持ってきた中でもっとも重要なのは父の国籍、ロバ、そして子ども時代の思い出です。
状態はわずかに改善したものの、まだ教育(特に高等教育)の機会、医療保障、それと食料が足りません。
学業が紛争で中断していたのですが、2004年に勉強を再開しました。2007年に小学校を終え、2010年に中等学校を卒業しました。
ジャバルでの生活は楽ではありません。この数年の間に多くの困難な時と数少ない前向きな時を経験しました。もっとも嬉しかったのは高校の卒業証書と学士号を受領した時です。勉強するのは楽しいです。子どもの時には医者になりたかったのですが、今はジャーナリストになりたいと考えています。
恋しいもの
1番は私の祖国です。祖国は、また混乱に陥っています。戻りたいのですが戻れないことがわかっています。祖国がとても恋しいです。親戚、所有していた家畜、そして先生たちも恋しいです。
1番の願い
私はまだ若く、夢は学業を続けることです。
世界のリーダーたちに話す機会があれば、私のコミュニティのような場所すべてで、高等教育が受けられるようにしてほしいです。私の世代は海外の奨学金を得て仕事の機会を手にし、難民ではなくなることを望んでいます。
国連WFPストーリーテラーでは支援を受けている人々が世界に向かって声をあげられるよう、写真、映像およびソーシャルメディアのスキルと創造力を教えています。