食糧支援の最前線で活躍する日本人職員 インタビューシリーズ 第6回 堀江正伸 国連WFPフィリピン事務所 プログラム統括
2013年11月、フィリピンを未曾有の大型台風が襲いました。同国は2011年から3年連続、大規模な台風に見舞われています。
国連WFPは、自然災害時には真っ先に緊急支援に動くと同時にまた、災害後の復興支援にも力を入れています。
2011年からフィリピン事務所に勤務し、台風被災地の支援に当たってきた日本人職員、堀江正伸(ほりえ・まさのぶ)から話を聞きました。
堀江はこれまで、インドネシア、スーダンなどでも勤務。どこでも、赴任地域の言葉を習得し、8言語を操ります。地元に溶け込んで地域情勢や慣習を学び、国連WFPの支援活動に役立てています。また、熱心な研究者でもあります。受益者の置かれた立場の分析や、国連WFPの支援が与える影響を調査。休暇で日本に帰国する際に大学院に通い、今後の国際協力に生かせるよう、地道に研究を続けています。
(肩書きはインタビュー当時。堀江は2014年8月よりイエメン事務所勤務。)
-国連WFPに入った経緯、前職と国連WFPに入ってからのご経歴を教えてください。
国連WFP入職前は、日本のゼネコンに12年間勤め、タイ、ラオスの高速道路、空港、地下鉄の建設に携わりました。インフラ整備はとても重要で、その成果もありそのころタイは目覚しい発展を遂げていました。その一方そうした発展から取り残されている人たちがいると感じました。どうやったら全ての人々の生活を改善できるのか。住んでいたバンコクには様々な国連機関のアジア事務所が集まっています。ここで多くの国連職員と知り合い、次第に自分も、人道支援、開発の分野で仕事をしたいと思うようになりました。
2005年、インドネシア、ティモール島クパン事務所プログラム・オフィサーとして国連WFPでの仕事を開始しました、3年間、農業の生産性を上げる「労働の対価としての食糧配給」プログラムに携わりました。地域の農業改善のために働いた人に、報酬として食糧を配給する取り組みです。その後、2008年にスーダン・西ダルフールのモルニという場所に移り、2011年まで地方事務所長を務めました。ダルフール紛争で生まれた国内避難民および避難民を受け入れている地元民への食糧支援をしていました。
-その後、フィリピンに移られたのですね。
2011年、ミンダナオ紛争の地域で食糧支援プログラムを統括するため、南部のコタバト地方事務所に赴任しました。当初、食糧支援の効率化に取り組んでいました。ところが、2011年12月、壊滅的な台風がミンダナオ島北部を直撃。多数の死傷者が出て、8ヶ月間、緊急支援を行いました。少し落ち着いてコタバトに戻ったその数ヵ月後、再び、2012年12月に大規模な台風が発生、今度はミンダナオ島南部に甚大な被害を及ぼしました。さらに、2013年12月にも例を見ない巨大台風30号が起き、結果的に、3年立て続けで緊急支援に携わることになりました。
被災直後は食糧配給、貧困家族への現金支給や子どもの栄養強化、妊婦・授乳中の母親への支援など、地域全体の活動の統括と、政府との交渉などを行っていました。日本からも多大なご支援をいただき、食糧支援を行いました。
食糧の緊急配布は既に全土で終わり、私は現在、特に被害がひどかったサマール島やレイテ島の現場統括兼タクロバン地区事務所長として、復興支援を行っています。今回の被災地域は、ココナッツの生産地なので、ココナッツ畑の再生を進めています。ここでは、地元の人がココナッツの苗木を植えると、報酬として食糧購入用の現金を支給するプログラムを実施しています。先に述べたインドネシアの事例のように、世界の多くの場所では、このプログラムで労働の対価として食糧を配っていますが、フィリピンのように貨幣経済が発達し、町に食べ物があるところでは、現金を支給した方が、地元経済も活性化されるため、現金を支給しています。フィリピンでのこの取り組みは、政府にも評価され、採用されました。
-災害が続きましたが、特に、やっていて良かったと感じられた仕事はありますか?
2012年の台風はバナナの一大産地、コンポステラ・バレー州を襲いました。農民の7割がバナナの生産に携わっている地域でした。全ての農園が壊滅し、企業が撤退し始めました。しかし、地元の人は皆、バナナ農園がなくなれば、働く場所がなくなります。バナナ栽培の技術もあり、他の作物を栽培したことのない農民が、新たな作物に切り替えるというのは非現実的でした。そこで、国連WFPではあまり前例がなかったのですが、バナナ農園の再興を支援することを考え、日本の商社や米国の果物企業などに掛け合いました。企業に、実を運ぶためのロープウェーを直したり、道具を提供してもらい、地元の人たちが農園を整備したり、木を育てるのに対し、国連WFPが現金を支給しました。バナナの木は、倒れても根が残っていれば再生します。短期間で何千ヘクタールものバナナ農園が復活し、バナナの実がたわわに実りました。完全に壊滅していた地域で、人々の仕事が元に戻ったのが嬉しかったです。
-フィリピンの言葉以外にも、毎回、赴任した場所の言葉をマスターし、計8言語も話せるそうですね。
はい、地元の言葉は必ず勉強するようにしています。地元の人の本音が出やすく、仲良くなれますし、やはり、生活や慣習、考えていることがよりよく理解できます。実は、英語よりもタイ語が得意で、他に、アラビア語、インドネシア語、クパン語(インドネシアの言葉)、タガログ語、ビサヤ語(フィリピンの言葉)ができます。
-多忙な生活の中で、帰国の機会を利用して大学院にも通われているそうですね。
現場で活動する中で、受益者の人たちは、私たちが常識と信じていることとは、まったく違う思考で動いているのだと思い知らされることが何度もありました。例えば、人里離れたところに暮らしているため、国家という概念がなく、自分が何人(なにじん)か知らない人もいました。昔の統治体制の名残が人間関係に反映されていたり、外部の人間が知らないしきたりがあったりします。支援機関が良かれと思っても、受益者にとっては必ずしも好都合でないこともあるのです。国連WFPなど人道支援機関による支援は、コミュニティに持ち込まれた物資以外の影響を与えます。地元社会の構造が壊れるようなやり方をすると、国連WFPの支援もうまくいかなくなるので、その村ができるまでの変遷や、人類学的視点から人道支援が地域にもたらす影響につて研究を進めています。これらの研究は、地域の開発、支援活動をより効果的に行いたいという思いからやっています。支援する人の数だけでなく、国連WFPが支援に入ることでコミュニティに与える影響を注視していくことが大事だと思っています。
インドネシアにいた時に、修士号を取得、スーダンにいる間に、博士課程に入り、現在も在籍中です。
国連WFPでは、危険度の高い場所に赴任する場合、6週間に一度、休暇がもらえるのですが、その休暇を利用して日本に帰り、大学院に通っています。
せっかく、普通は行けない所にいっているのだから、自分が学んだことを記録に残し、自分だけでなく、多くの人と共有し、役立ててもらいたいというのが論文を書いている動機です。
-ずっと単身で異動されているのですね。
国連WFPの職員の9割は開発途上国で仕事をしています。治安の面から家族を連れて行けない地域も多いので、ずっと妻子を日本に残して単身赴任をしています。これが、この仕事で唯一つらい面です。
-食糧支援の意義とは何でしょうか?
人は、そこに食糧があって初めて、ほかの事を考えられるようになります。例えば、災害が起きると、衣食住、教育など色々なことについて悩まなければなりませんが、何よりも一番必要なのが食糧です。食糧があってはじめて、安心して生活の再建について考えられると思います。
食糧支援というのは、食糧だけでなく、希望とか安心とかそういうものを届けている。食糧があれば、最初の一歩を踏み出すことができるようになるのです。