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「世界人道の日(8月19日)」に寄せて~南スーダンの現場から

「世界人道の日(8月19日)」に寄せて~南スーダンの現場から
, WFP日本_レポート

8月19日は「世界人道の日」。現在、紛争や災害により、命をつないでいくための支援を必要としている人は、世界で1億2,500万人います。この日に先立ち、過酷な状況下で人道支援活動を支える、国連WFPの職員を紹介します。

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国連WFP 南スーダン事務所

ルーシー・ワスック

私はこれまでの人生のほとんどを難民・避難民キャンプで過ごしてきました。幼少時は父が小学校の先生をしていたウガンダのボンボにある難民キャンプで、そしてアッファード女子大学に通学し経営学士を取得したときはスーダンの首都ハルツームの避難民キャンプにいました。

この仕事を選んだことは自然な流れでした。避難生活を強いられている人々にとって、緊急食糧支援は唯一の希望だと信じています。このような人たちは支援無くしてどうやって暮らしていくのでしょう。貧しい人々のために働くこと、それは、そういった人たちに新たなチャンスを与え、人生に希望の灯をともすことだと思っています。

現在は独立して南スーダンとなった地域で内戦が激化し、スーダン人民解放軍(SPLA)による村々への襲撃がいっそう激しくなった1998年ごろ、被害にあった地区での求人広告を見つけたのが、この仕事を始めたきっかけでした。帰る家がないことや食べるものがないことの気持ちを肌身で知っているからこそ、迷わず応募しました。最初の仕事はバハル・エル・ガザール州のワウでの緊急食糧支援でした。この地域は食糧難の状況が究極にひどく、死体をわざわざ座らせまだ生きているように見せかけ、生存者の数に入れるのです。きちんと埋められるのは、朝のおかゆが配られてからです。なぜなら、こうすることで、生存者が亡くなった人の分まで食糧をもらえるからです。

この仕事での一番の危険は、敵対する勢力の間にありどちらの支配も及ばない「中間地帯」で仕事をすることです。ここは民兵や子ども兵士が潜み、境界線が未確定で、そして国連のアクセスが制限されています。18年間の現場での活動でもっとも恐ろしかった体験は、子ども兵士にとらわれたときのことでした。ジョングレイ州のある小さな村が、2003年の事業の計画から洩れてしまい、現地当局から立ち寄ることを要請されました。リーダーが誰なのかと聞かれた後、私は12歳くらいの銃を持った男の子に連れられ小さな小屋に閉じ込められてしまいました。彼は、銃口が顔に当たるほど近い距離で私に銃を向けていました。疲労と飢えからか、手を引き金にかけながらウトウトしており、何が起こってもおかしくありませんでした。ハルツームから国連WFPの安全管理担当者がやってきて、交渉によって開放されるまで、6時間もの間、私は命を彼に託された状況でした。

これまで仕事で最も報われたと感じたのは1999年、ジョングレイ州のピボルで実施した事業に参加した際、現地の人々に、「ボレン」という名前をつけてもらったことでした。豪雨のときに村の老人たちが避難できる大きな木、という意味です。その頃、私はピボルの地に足を踏み入れた人の中で、初の外国人ではない女性支援関係者でした。飛行機から投下される食糧を受け取り、そして配布するという役割を担っていたので、同じように「安心」を提供する大きなの木のように見てくれたのかもしれません。村の人たちは、「ボレンがいれば食べ物がある、大きな飛行機が天からの食べ物を落としてくれる、ボレンがいればわれわれの太鼓が鳴り、子どもたちが結婚し、塩味が効いて食べ物がおいしくなる」と歌ってくれました。私から名前をとって、今、ピボルにはルーシーやボレンという名前の8歳から14歳の女の子がたくさんいるのです!

その2年後、同じくピボルでワッド・シリングという少年に出会ったことも非常に思い出深い経験の一つです。ある日、食糧を配給していたところ、11歳くらいのひとりの孤児が私たちのところにやってきました。「国連WFPから配給があった時だけ温かい食事をとることができる。その後は次に食糧が空中投下されるまで、野生の実を採ってひたすら食べているんだ」と言うのです。彼は、野生の実はもう食べ飽きたので、私の自宅まで連れて帰って温かい食べ物を食べさせてくれれば、大きくなったら牛を盗んで返す(現地では伝統的に牛を盗み合うことがあります)、と提案してきました。私はこの子の将来が牛の盗人かもしれないという事を受け入れられず、他に助ける方法を考えました。そして、彼の叔父、そして私自身の上司の了解の下、マラカルにある自分の勤務地に連れて帰ったのです。村中の人々が彼が飛行機に乗る姿を見送りました。彼は私とマラカルで4年過ごし、学校に行き、そしてその後はジュバに行きビジネスマンになりました。そして恩返しとして、自分の甥を支援しました。その甥は今ではプラン・インターナショナルという国連WFPの連携機関に勤め、南スーダンのジョングレイ州で活動しています。

私の唯一の願いは、南スーダンの人々が、ひとつの国そしてひとつの部族であることを受け入れること、そしてこれまでの部族間紛争によって被害を受けている南スーダンの人々の苦しみを減らすことです。まだ若いこの国の発展のため、わが国のリーダーたちには頑張ってもらいたいです。

世界人道の日とは……2003年8月19日、イラクのバグダッドで国連事務所本部が爆破され、支援活動に従事していた22名が命を落としました。その死を悼み人道精神を受け継ぐために制定されたのが世界人道の日です。世界各地で起きている紛争や災害などで脅かされている人々に対する支援の輪を広げるとともに、困難な状況で支援活動に携わる人々に心を寄せるための日です。