サロメの物語:紛争と飢餓に見舞われたモザンビークで生きる女性
「家に戻った時には、すでに襲撃されていました」とサロメは言います。「私の家は破壊され、家族8人を失いました。夫と長男が殺されました。私は何とか素足で逃げ出し、他の子どもたちに会うための交通費を支払うため、手につかめるだけの宝石を売り払いました。
彼女の人生が引き裂かれる前は、タンザニアから母国モザンビークに生地や衣類を輸入し、生活はうまくいっていました。しかし運命は、気候変動の影響を強く受け、紛争が絶えないカーボ・デルガードで、残酷な方向へと進んでいきます。
故郷ムイドゥンベで築いてきた安定した生活は崩れ、彼女は近年、モザンビークで国内避難民となった100万人の内の1人になりました。サロメと子どもたちは現在、隣州ナンプラの比較的安全な場所で、借りた土地に建てたシェルターで暮らしています。
カーボ・デルガードでの襲撃は5年前に始まりました。この地域は、モザンビークで最も栄養不良の割合が高く、2019年には猛烈なサイクロン「ケネス」によって打撃を受けました。
しかし、サロメが自分の村に脅威が近づいていることを知ったのは、昨年のことでした。女性や少女に対する暴行の噂を聞いた彼女は、10歳と7歳の娘2人と2歳の息子を連れて、ナンプラの祖母の家へ逃げることを決心しました。子どもたちには夫と長男が亡くなったことは伝えず、「お父さんとお兄ちゃんは旅に出たよ」と話しています。
昨年3月までに、サロメの家族は、毎月50kgの米の袋と10kgの豆、5リットルの植物油を国連WFPから受け取っていました。しかし4月になると、国連WFPは資金不足のため、全ての避難民家庭に対する食料配給を半減せざるを得なくなりました。サロメように絶望的な状況にある人びとは今、国連WFPが追加の資金を確保できない限り、飢餓の危機に直面します。
国連WFPのモザンビーク国事務所代表アントネラ・ダプレッレは「国連WFPの資金状況は厳しいものとなっています。」と言います。「今、資金が確保できなければ、国連WFPは2023年2月までに、100万人への命を救う支援を全て中止せざるを得なくなるでしょう。」
これは行動のための呼びかけです。1月は次の収穫を前に食料が不足する季節(リーン・シーズン)です。また、サイクロンの時期でもあります。農家は収穫期を待っているため、食料価格がますます高くなります。サロメはこのことをよく知っています。
「私は、ナンプラで生活を立て直そうとしていました。この場所を借りて、自分で家を建てました」と彼女は言います。「しかし熱帯低気圧『アナ』がきて、家の片側を破壊しました。その後、サイクロン『ゴンベ』が直撃し、家は崩壊しました。唯一残ったのは、この壁だけです。しかし子どもたちがいるので、私は諦めません」と言います。
モザンビークは、気候変動に最も脆弱な国の一つです。今年のサイクロンの季節は特に激しく、3つの熱帯低気圧と1つのサイクロンがモザンビークの北部と中央部を襲い、90万人が影響を受けました。家屋は倒壊し、畑は浸水し、地域はさらなる飢餓と栄養不良に見舞われました。
サロメは、新居の近くに借りた土地に種をまきました。しかし、彼女が新しく耕した土地は、嵐とサイクロンによって、破壊されました。
「私はそこで作物を育てて始めていました。最低限のものは手に入れました。サイクロン『ゴンベ』がすべてを流してしまったのです。田植えをしていましたが、その米の全てがダメになりました。まるで、武力攻撃をもう一度体験しているかのようです。すべて無くなりました」と彼女は言います。
サロメが救えたものは、ピーナッツだけでした。国連WFPから支給された米、豆、油の他に、ピーナッツだけが子どもたちに食べさせることが出来る、唯一の食材です。
「近頃私たちは、国連WFPのおかげで生き延びています。私の米はすべて失われました」と彼女は言います。「カシューナッツの木はすべて倒れていました。私は穴に落ちているような感じがしました。食料を家に持ち帰るため、せめてピーナッツを集めるために、身をかがめなければなりませんでした。それでも私は諦めません。」
モザンビーク北部の広範囲にわたる紛争と資金繰りが悪化する中、国連WFPはアメリカ、欧州連合(ECHO)、ドイツ、フランス、イタリア、スウェーデン、ノルウェー、アイルランド、イギリス、日本、カナダ、そしてサウジアラビアからのご支援によって、遠隔地への食料と栄養支援を拡大し、100万人以上に手を差し伸べることができました。