南スーダンのストーリーテラー:これが難民たちの現実の生活です
2000年1月6日の晩に、私は叔父クリストファー・ルークによって、母の元から連れ出されました。わずか11才でした。
母は少しの道のりを共に歩き、ルーク川のところまで来て別れを告げました。母は私を抱きしめ、泣きながら言いました。
「息子よ、行きなさい。あなたはこれからもずっとお母さんの心の中にいるでしょう。私たちはすぐにまた会えます」
私と叔父は、橋のすぐ近くに立つ母を残して行きました。数百メートル進んで振り返ると、母はまだ私たちを見送っていました。目が合い、母は私に手を振りました。
私たちは、コンゴ民主共和国のアタキ難民キャンプで生活していました。
戦争のために私の家族は、私がわずか4才の時にスーダンのマリーディー州から逃れました。
その避難の旅のことはほんの少ししか覚えていません。両親が必死になって子どもたちを連れ荷物を運んでいたのを覚えています。
私は父親に肩車されていました。父が私を肩車しながら大きな木の下を通り、現地語で「アランガ」と呼ばれるブドウを切っていたのを覚えています。
父が私を支えてくれていたので、私はカットされたアランガから滴るジュースを飲むことができました。深い森の中を歩き、夜は森の中のすぐ近くで野生動物が音をたてるのが聞こえ、怖かったのを覚えています。
コンゴ民主共和国との国境で国連の職員が私たちを車に乗せ、アタキ難民キャンプまで連れていってくれました。
当初、生活は大変でした。母は毎日、私たちに食べさせるために、トウモロコシを石の上でひかなければなりませんでした。 それが豆や食用油とともに唯一の食料でした。
初めの頃は子どもたちの学校はありませんでしたが、しばらくして開校しました。
私はひどい病にかかって死にかけました。
母が私を現地の医者に連れていき、その医者はカミソリの刃で私の体を切りました。その治療が効いて私は良くなりました。
コンゴ民主共和国のなかで生活していても、完全に紛争から逃れることができたわけではありません。
スーダン人民解放軍(SPLA)は、脱走兵を探して国境を越えコンゴまでやってきました。私たちは警告を受けると藪の中に隠れて寝るようにしていました。
しかしある時、たき火の周りですわっていると、兵士らがやってきました。私たちは怯えていました。
兵士たちはすべての大人の男たちをつかまえ、ムチで打ち、お前たちは脱走兵かと叫んで尋問しました。
叔父はどれだけ遠くまで歩かなければならないか分かっていましたが、私たちにはその場所はもうすぐだとごまかし遠くの木を指さして、あの木の向こうまで行けば目的地に着くと言いました。
私は子どもの頃に母と過ごしたすばらしい時間を、たくさん思い出すことができます。母は私をとても愛してくれました。
母は、私たち子こどもをよくからかったものです。
ある日、母が鶏をさばいていたので、私たちはそれを食べられると楽しみに待っていました。でも母は、ソースに香辛料を入れちゃったと言いました。香辛料が入っていたら子どもは食べられません。「今日は誰がチキンを食べることになるか楽しみね」と母は言いました。
私たちは悔しがりました。私はおこって機嫌が悪くなりました。でもそれから母は家の中へ入って、私たちに香辛料の入っていないチキンソースを出してくれました。母は私たちをちょっとからかっただけなのでした。
母が別れを告げた時、胸が押しつぶされるような気持ちでした。
コンゴからウガンダまで歩いて行った時、姉のマグデリーナと赤ちゃん、リンダという女性、そして叔父のクリストファー・ルークと私の5人でした。
私たちは5日間歩きました。夜遅くに出発したので1日目はそれほど遠くまで歩けませんでした。
しかし2日目は、朝の5時から夜の8時まで歩きました。木がほとんどない背の高い草ばかりの景色を通って未舗装の道路を歩きました。
叔父とリンダはそれなりの靴を履いていましたが、姉と私は裸足でした。私たちは日影を這うように進みました。
その夜は道路わきの教会で少し休みました。
3日目になると私はもう歩けませんでした。足はすっかり腫れてひどく痛みました。
子どもだった私は母のところへ帰りたいと思いました。でもすでに遠くまで来てしまっていて戻ることはできません。
私は背負ってもらうには重過ぎました。
叔父が杖を持たせてくれました。それを使って歩こうとすると、すごく痛かったです。
ですが、やがて痛みにも慣れました。
夜はとても寒いので、昼間の暑さの中をずっと歩きました。
道端の家で少し休ませてもらいましたが、体を温めるにはシーツがあるだけでしたし、おまけにしっかり蚊に食われました。ウガンダに着いた後になって、私はマラリアに罹りました。
4日目は、少し気分はましになりましたが、長く歩き続けたせいであいかわらず足が痛みました。
叔父はどれだけ遠くまで歩かなければならないか分かっていましたが、私たちにはその場所はもうすぐだとごまかし遠くの木を指さして、あの木の向こうまで行けば目的地に着くと言いました。
長い道のりを歩いてもなかなかたどり着けませんでした。でも叔父が励ましてくれたおかげで、6日後の2000年1月12日になんとかウガンダのアルア地区にあるリノ難民キャンプにたどり着きました。
叔父は私を連れに来る前、すでに1年間私の兄ビクター・フライデーとそこに住んでいました。
リノキャンプの叔父の家で兄と再会することができました。ビクターとまた会えてとても嬉しかったです。
ひと月そこで休憩し、それから一日かけてアルアの町にある国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のベースオフィスまで歩いて行きました。
ここで私たちは難民として登録され、UNHCRのトラックが私たちをキャンプまで連れ帰ってくれました。
その後、叔父は私を小学校に入れてくれました。叔父は私に、「一生懸命勉強しなさい、そうすればいつかお母さんを助けてあげられるよ」と教えてくれました。
叔父が兄と私をウガンダまで連れてきてくれたのは、そのような理由からだったのです。
叔父はよく私にこう言っていました。「一生懸命に勉強して将来立派な人になりなさい。君が学校でも優秀なことを知っているよ。がんばりなさい」
叔父の父親は南スーダンで医者をしていました。教育によって人はより良い地位に就けることを叔父はわかっていたのです。
リノ難民キャンプでは、叔父が泥のレンガを使い草で屋根をふいて建てた家に住みました。その家は必要最小限のものでした。
UNHCRはコップやお皿、そして中古品の黒い鍋をくれました。パピルスでできた敷物の上で寝て、体をおおう毛布もありました。
国連WFPからトウモロコシ、ソルガム、キビのような基本的な食材や食用油、塩をもらいました。
ソラマメや白エンドウを育てました。兄と私は放課後や週末に種をまき、鍬を使って畑仕事をしました。
市場では山のように売られていた小さな銀色の魚を買いました。それをつぶして乾燥オクラやかぼちゃと混ぜ合わせるとおいしいです。
ここウガンダとコンゴの大きな違いは、コンゴでは土地が肥沃であったということでした。
コンゴでは小さな菜園からたくさん収穫できて食べ物も良かったです。私がそこを離れるまでに多くの人たちが自給自足できるようになり、支援機関からの食料は必要としませんでした。
しかし、ウガンダでは違いました。土地はそれほど肥沃ではなく、人々は国連WFPからの食料に頼っていました。
でもウガンダでは、学校はずっと良かったです。私は小学校の2年生、14才だった兄は3年生のクラスに通いました。
私は兄がいなくて寂しかったので、兄と再会できて嬉しかったです。
叔父が私たちの世話をしてくれました。叔父はウガンダ人やベースキャンプの周りのコミュニティで臨時仕事をしてお金を稼ぎ、私たちに石鹸や少量の食料、学校の制服を買ってくれました。
8か月が過ぎたころ、コンゴから母が重い病気であるという手紙が届きました。姉はコンゴへ戻って母の世話をすることにしました。
スーダンから来たおじさんたちの何人かがコンゴに戻り、母と姉、そして他の兄弟姉妹たちをスーダンに連れて行きました。
8月の終わりのこと。私は学校から帰り、とてもお腹が空いていたので何か食べようとしていました。
その時、叔父が私を呼び手紙を読んで聞かせました。
それは母がスーダンで亡くなったことを知らせる手紙でした。
私は残念で悲しくてどうしようもない気持ちでした。泣き叫びながら地面を転がりました。
隣人たちは皆、私がどうかしてしまったのかと思って駆けつけました。母が亡くなったことを知ると、いっしょに泣いてくれました。
隣人たちはお葬式を挙げるのを手伝い、祈ってくれました。
三日後に新たな苦難の生活が始まりました。それは別の物語になるのですが。
ある日、クリストファーおじさんは、私たちの学校の授業料にあてるお金を得るためにジュバへ行きたいと言いました。
2005年時点での平和が意味するところは、南スーダンに戻ることがまだ可能だったということです。
ほとんどの難民たちはまだ、南スーダンへの帰還が正式に決まっていませんでしたが、その新しい国には多くのチャンスがあったので、たくさんの人々が仕事を求めて帰っていました。
私たちは皆、叔父がジュバに行くことに賛成しました。
家に帰りつく前、背後で恐ろしい銃撃が聞こえました。それは私がJ1で見た兵士たちでした。彼らは面と向かって発砲し、ほとんど全ての人が死にました。
数か月後、ジュバで事件が起こりました。弾薬庫が爆破され、その爆発で多くの人が殺されました。
叔父は完全に姿を消しました。彼の遺体は見つかりませんでした。
私はある朝、遅刻した生徒から教室でその知らせを聞きました。
絶望的な気持ちで家に帰り、一日中泣きました。
私は自問しました。「僕たちの家族はどうなってしまうのだろう? 父さんも母さんも逝ってしまった。そして叔父さんまで。家族はどうなるんだろう?」一日中、そう自分に問い続けました。でも答えはわかりません。
2週間かかりましたが、友達や隣人たちが手伝ってくれたおかげで、私たちは叔父の葬儀を挙げることができました。その後、私の人生の新しい章が始まったのです。
2016年5月に、副大統領のリエック・マチャルはジュバに戻り、第一副大統領の地位を与えられました。
2016年7月7日、私が客を車に乗せて運転しているとき、州議事堂を通り過ぎました。その建物はJ1と呼ばれています。
膨大な数の兵士が沿道に立っていました。右側にはグリーン単色の制服を着た兵士が、左側には混色の軍服を着た兵士がいました。兵士らは戦車を配置した重装備で、完全に武装していました。
私たちの車が通り過ぎる時、彼らは何も言いませんでした。
客を降ろした後、帰り道で私は「州議事堂で何が行われているのだろう?」と疑問に思いました。その答えはわかりませんでした。
帰る途中にJ1を通り過ぎようとすると、車を止められ別の道を行くように言われました。
その時、何か重大事が起きているに違いないとわかりました。
帰宅途中でさらに多くの兵士たちが何台ものトラックに乗りハイスピードでJ1に向かうのを目撃しました。
グリーン単色の制服を着た兵士たちは、第一副大統領の護衛であり、他の兵士は南スーダン大統領サルバ・キールの護衛でした。両指導者は会談するためにJ1にいたのです。
家に帰りつく前、背後で恐ろしい銃撃が聞こえました。それはJ1で見た兵士たちでした。
彼らは面と向かって発砲し、ほとんど全ての人が死にました。生き残ったのはわずかな人だけでした。
その翌日、銃撃戦はさらにエスカレートし、街のいたるところに及びました。
市場へ行く者は誰一人いません。市場はみな閉まっていました。
病院はもはや機能せず、軍の病院だけが負傷した兵士を治療していました。霊安室は遺体でいっぱいでした。
すさまじい銃撃戦のあった4日後に、リエック・マチャルは再びジュバを離れ、戦争は南スーダンのほぼ全域に拡大しました。
あの戦争で何千人もの市民が犠牲になりました。
飢えのために亡くなった人もいました。
経済的な危機でした。物価は高騰していました。
街では何もかもひどく混乱していました。夜間に見知らぬガンマンたちに殺される人もいて、人々は不穏な毎日を過ごしていました。
私の生活はもはや安全ではありませんでした。
人々は逃げ出そうとしますが、道路は通行止めになっていました。
ジュバからイェイにある自分の家まで行くことは不可能でした。
ウガンダへ向かう道路だけは通行可能でした。そこはウガンダの兵士の支配下にあり、南スーダンに住む多くのウガンダ市民のために、安全に守られていました。
私は妻のジャネットに連絡して、イェイからウガンダへ向かうように伝えました。私たちはウガンダで会うことにしました。それで私はジュバからウガンダへ出発しました。
私はお金を払い、トラックに乗せてもらうことができました。街を出るとき、道路わきに死体が見えました。
村から村へ移動しましたが誰にも会いませんでした。家は全てもぬけの殻です。
私たちは皆とても恐ろしくなって、国境を無事に通過できますように、兵士らにつかまりませんようにと祈りました。
ある村を過ぎてすぐに、兵士たちに呼び止められました。
兵士たちは車を調べ、私たちのポケットにあった少しばかりのお金を取り上げ、私たちを行かせました。
兵士たちのもとを離れるとき、道路のあちこちに死体が見えました。そして上部に銃砲を備えた焼け焦げた軍用車が何台かありました。恐ろしかったです。
エレグという場所に着いた時、国連WFPとUNHCRの職員が私たちを迎えてくれました。調理済みの食べものが提供され、私たちはそれぞれビスケットをもらいました。
難民登録をして、翌朝にはトラックに乗ってビディビディ難民キャンプまで行きました。
私たちはそれぞれ住む土地、食べ物などを与えられました。そしてまわりの茂みを刈り取ることから始めて、住む家を作りました。
受け入れ側のコミュニティの人たちが、販売用のオレンジをたくさん持ってやって来ました。私たちはオレンジを、小麦粉や豆と交換してもらいました。
私は、ここではもう何も恐れる必要はないのだとわかりました。国連は私たちを間違った場所に入れたりしません。ここでは普通の生活ができるのです。
ビディビディで茂みの中へ分け入った時、私は両親のことを想いました。かつて両親も同じことを経験したはずです。
両親がコンゴで茂みを切り開かなければならなった時、私は子どもでした。両親にとってそれがどんなに大変だったか、その頃の私にはわかりませんでした。
土地を切り開きながら思いました。両親はずっと難民だったこと、そして自分は今また難民に戻ってしまったこと。
これはいつ終わるのだろうか、と思いました。
国際救援委員会がコミュニティ・ヘルス・ワーカーを求めてやって来ました。
彼らが私の家に来た時、私はいませんでした。私が作っている木の腰かけを買ってくれるお客さんを探しに出かけていたのです。
留守中でしたが、地区の人たちは私を村のヘルスチーム代表に選びました。
2018年、国連WFPは、ビディビディのコミュニティで物語を集めるよう人々を訓練するための、ストーリーテリングのトレーニングの広告を掲示しました。
私たちはビディビディ難民キャンプの第2地区にあるロコピオというホテルに行きました。そこで2週間のトレーニングを受けました。
トレーニングの第一日目は入門編でした。写真やビデオを撮るときのコツを教えてもらいました。もう知っている内容のように思えましたが、楽しく受講しました。
最初の週のファシリテーターは、ローズベル・イダルトゥ・カグマイアというウガンダ人の女性活動家・ジャーナリストと、オーストラリア人の写真家・映画カメラマンの活動家、ヒュー・ラザフォードでした。
彼らのトレーニングの進め方はとても良かったです。短いストーリーのキャプションの書き方、良い写真やビデオの撮り方を教わりました。
2週間が過ぎると、国連WFPはストーリーテラーの就任式をしてれました。ヨーロッパ出身の作曲家・プロデューサーであるベンソンが、就任式の特別ゲストとしてやって来ました。
私たちは訓練の修了証明書を交付されました。そして国連WFPのジョアキーノは、私たちにスマートフォンを与えることを約束しました。そのセレモニーはフェイスブックでライブ配信されました。ヒューは私に、「君はストーリーテラーに向いている。がんばって続けてください」と言ってくれました。
国連WFPストーリーテラー・プロジェクトのために、ビディビディ・ストーリーテラーというフェイスブックのグループができました。私は早速そこでストーリーをシェアし始めました。
1か月後にスマートフォンが届き、ついに私は新品のSamsung Galaxy A5を手にしたのです。それを有効に活用し、難民のたくさんの物語を共有しました。
難民たちの語られていない物語を伝えていくことで、難民の実際の状況を世界の人々に知ってほしいと思いました。
ある日、ロンドンのBBCから電話がありました。BBCは私に難民キャンプでの生活についてインタビューし、私がいかにして「声なき者たちの声」となったのか尋ねました。
彼らがビディビディに来て、私といっしょにストーリーを取材することは可能かどうか尋ねました。
ロンドンからジャーナリストが来ていっしょにキャンプをまわり、難民たちのストーリーを取材しました。
私はフェイスブックで、Daily Refugees Storiesという名前の個人ブログを書くことにしました。ここですべての投稿を共有しています。
2019年から2020年まで、私は自分の能力を磨き続けました。これらのことがすべて、自分の考えを発表する場につながりました。
その考えとは、難民キャンプの若者の失業に焦点を当てるAfrican Youth Networkという地域密着の組織を創設することです。
新型コロナウィルスのパンデミックが続き、多くの若者が仕事をなくしました。
彼らはmariungiという麻薬入りのガムをかみ、アルコールを飲みながら難民キャンプでぶらぶらしています。
私は彼らに明るい未来が開けるよう手助けしたいと考えています。
2020年初め、私は招待を受け世界経済フォーラムに参加し、世界中の難民を代表して演説しました。すばらしい経験でした。
私は、不当に収監されたこと、伯父から虐待されたこと、妻や子どもたちと離れ離れになったことなど、難民となった人生の経験を伝えました。でもストーリーを他の人々に伝えながら、また人々を鼓舞することもできたと思います。
私はあるオンラインのイベントで、難民が必要とする迅速な支援について、そして難民への食料支援の重要性について意見を述べました。
また、その年の後半に国連WFPのノーベル平和賞受賞の祝賀会に参加しました。国連WFPは、紛争と飢餓の循環する関係を浮き彫りにした功績によって、10月にその賞を受賞しました。
私は映画俳優キウェテル・イジョフォーとともに、紛争が世界の人々に与える影響について、難民にとっての平和の意味について話しました。
人々は難民になることがどういうことかを理解していません。
世界の指導者たちが、G7や6月20日の世界難民の日という別のアプローチで集まる時、それはおそらく世界が私たちの声を聞く機会になるでしょう。
多くの人々は紛争がどのようなものか理解していません。映画の中で見るだけだからです。
難民は現実にそれを経験した人たちです。
故国を去らなければならないのです。避難先を求めて逃げなければならないのです。故郷のように食料を栽培できる十分な土地もありません。
難民キャンプに住んでいると収入を得ることも難しいのです。給料はもらえません。お金を稼ぐ方法がありません。
でも支援があれば、自分の足で立つことができます。私こそがその生き証人なのです。