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【日本人職員に聞く】ロジスティクスの強さこそがWFPの真骨頂(前編)

WFPスーダン事務所 Shipping Officer/シッピング・オフィサー山﨑 和彦さん
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ウクライナからの緊急支援物資の小麦粉がポートスーダンに到着した様子 © WFP/Abubaker Garelnabei

2023年4月に紛争が勃発したスーダン。昨年8月には、死に至るほどの重度な飢餓がさらに深刻化し、「飢きん」が確認されました。日本から遠く離れたこの地で、日々命を支える支援を続ける人びとは、どのような思いを抱えているのでしょうか。WFPスーダン事務所でシッピング・オフィサーを務める山﨑和彦さんに、その思いを伺いました。

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必ずどこかに解決策があるはずだ

 私は2021年9月に、スーダン北東部の港湾都市、ポートスーダンに着任しました。以来、主に港と倉庫のオペレーションにかかわるマネージメントを担当しています。ポートスーダンはその名の通り紅海に面した、スーダンにとっては最大かつ最重要の貿易港であり、年間20万トン前後*¹のWFPへの支援物資も、ほぼすべてこの港で受け取っています。
 仕事は物資を積んだ船が積出港を出航する前から始まります。例えば、アメリカ湾岸地域(ヒューストンなど)から支援物資が船積みされる場合、ポートスーダンまでは大西洋、地中海、スエズ運河を経て約3~4週間の航海です。その間にスーダン側の関連政府機関からの免税処置や輸入許可など数々の書類手続きを終えておく必要があります。
 アメリカからは穀物(主にソルガムというイネ科の穀物)が5万トン級*²の大型船で輸送されてきます。物資は到着後、当局による植物検疫等の検査があり、問題がなければ荷揚げが許可され、24時間体制の作業が始まります。作業の遅延で船舶の出航が遅れると、それに対する莫大な延滞料がかかるので、遅れは許されません。穀物は岸壁で機械を使って袋詰めし、倉庫で保管します。
 ポートスーダンには現在14棟*³の倉庫があり、最大で約10万トンの保管スペースがあります。紛争前は、港から首都ハルツームやダルフール地方などスーダン各地に直接発送ができていましたが、現在は紛争の影響で移送が困難なため、一旦ポートスーダンの倉庫で保管します。そのため、倉庫も増やしましたが、やりくりの厳しい状況が続いています。
 その後、民間輸送業者、あるいはWFPが所有するトラックで各地に輸送を手配しますが、ダルフールやハルツームなど、激しい戦いが行われている地域へは当局から輸送許可が下りないなど、計画通りに支援物資を届けるのには非常な困難を強いられます。また雨期には道路や橋が通行不可能になるなど、様々なハードルを克服しなければなりません。
 WFPでは広大なスーダン各地への輸送ルートを確保するため、ポートスーダン以外からもアクセスできるよう、エジプト、チャド、南スーダンからのサプライルートもすでに運用が開始されています。
 スーダンに限らずWFPのロジスティクスは非常にプロフェッショナルな集団であり、その強さこそがWFPの真骨頂と言えるのではないでしょうか。ここのスーダン人職員にはこの道30年というような達人がおり、私も彼らに教えてもらうことが多いです。あらゆる場面でチャレンジングな状況に直面しますが、「必ずどこかに解決策があるはずだ」という問いかけを常に自分にするようにしています。仕事上ホッとするのは、なんといっても何万トンもの大型船の荷揚げを予定通り無事に終えた時です。

※1およそ新幹線5,000両分の重さ ※2およそビル20階分のサイズ ※3 2025年2月19日現在

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荷揚げの様子 © WFP/Kazuhiko Yamazaki
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荷揚げの様子 © WFP/Kazuhiko Yamazaki
スーダンでの暮らし

 紛争の勃発で、現地での暮らしは根本から変わってしまいました。もともとポートスーダンは人口50万人程度ののどかな地方都市でしたが、紛争発生後はスーダン各地、特に首都ハルツームから紛争を逃れた避難民が大勢押し寄せたため、急激に人口が増え、現在は実質上、臨時首都の様相です。
 あらゆる物価は何倍にも高騰しています。例えばロングライフ牛乳(常温保存可能な牛乳)など基本的な食品もハルツームからの供給が途絶えたため、エジプトやサウジアラビアからの輸入品に頼らざるを得ません。供給は不安定なため、自分の生活必需品は日本から持ち込むか、見つけた時に買いだめをして凌いでいます。
 また、人口の急激な増加によって街中の衛生環境が悪化しています。こうした中、最近日本政府から寄贈されたごみ収集車が稼働を始めました。白色の車体に日本の国旗と”People from Japan”の文字が見えます。こうした支援は人びとの暮らしを目に見える形で即時改善していけるものであり、たいへん好ましい例だと思います。
 スーダン人といっても200以上の部族があると言われ、一概に言えませんが、穏やかで温かく接してくれています。日本のアニメ、漫画への関心は強いようで、私が日本人とわかるとよく話題に上りますが、私はアニメの知識が乏しく彼らの話についていけません。
 気候は年間を通じて高温乾燥ですが、12月~3月頃までは最高気温が30℃を超えることはなく、凌ぎやすくなります。10月~2月頃までは雨も降りますが、それほどの降雨量ではない印象です。ラマダン(断食月)の期間中は、彼らの前では仕事中も水を飲まないなど配慮が必要です。私は過去10年以上イスラム圏(マレーシア、アフガニスタン、イエメン)で働いてきたので、生活環境について、個人的には大きなサプライズというのはありません。体質的にアルコールが苦手なので、イスラム圏勤務には向いているかもしれませんね。

国際協力の道を志した原点

 私が国際協力の道を志した原点は、社会人生活を送っていたある時、犬養道子さんの著書『人間の大地』を何気なく手に取り読んだことだと思っています。その本のあとがきの中だったでしょうか(本が手元にないので不確かですが)、「日本人の若者にもっと世界の難民支援の現場に出てきて欲しい」という犬養さんのメッセージに心を揺さぶられたのです。その後、私は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の東京事務所や、国境なき医師団の日本事務所でボランティアを始めました。UNHCR主催の「キャンプ・サダコ」(当時の国連難民高等弁務官、緒方貞子さんの名にちなむ)というボランティアプログラムに参加し、ケニアのカクマ難民キャンプでの短期ミッションの一員として初めて、人道支援の活動現場を経験しました。1994年当時、ブルンジとルワンダでの大虐殺を契機にした大規模な難民が発生し、カクマにも避難民が到着し始めていました。また、スーダンから行き場のない難民も多数滞在していましたが、食料配給の登録や配給時などにかなりの緊張感があったのを覚えています。一方、エアドロップ(食料の空中投下)などダイナミックな人道支援におけるロジスティクス活動を目の当たりにし、自分もいつかこの仕事をしてみたいと意識するようになりました。その後はJPOへの挑戦のため、ケニアでの滞在を終えた後は、国内の大学院に通い国際学を学ぶ傍ら、NGOで数年職員として働いたのち、JPO試験を経て、2000年JPOとしてWFPに入ることができ、今日に至っています。

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