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足元に広がる世界: 南スーダンで人道支援者となった「ロスト・ボーイ」

90年代に武装勢力に徴用され、ケニアに逃れたエリヤ・マニョク・ジョクは、国連WFPの学校給食を受け、大人になってから国連WFPにスタッフとして参加し、その後、自らのNGOを立ち上げました。
, Gioacchino Gargano

a boy is playing football in the street
南スーダン独立から5年後の2016年、ザムザムキャンプでサッカーに興じるスーダンの子どもたち。Photo: WFP/Gabriela Vivacqua 

この記事は、国連WFPが毎年開催している、800以上の国際・国内NGOパートナーとの戦略的優先事項や協調活動について話し合うイベント「Annual Partnership Consultation 2021」を補足したものです。

 

「子供の頃の国連WFPに関する最初の記憶は、カクマ難民キャンプの通りを走る車です」とエリヤ・マニョク・ジョクは言います ― 青い文字でWFPと書かれた車です。「私と友だちは、その車の周りを走って、水の入ったボトルをもらったことを覚えています。当時、水のボトルはあまり見かけなかったので、とても貴重なものでした。あの車は、何か良いことが起こる、いつか自分たちもあの車に乗れるという希望を与えてくれました。それが当時の難民の子どもたちの唯一の希望だったんです」

 

南スーダンの白ナイル川東岸の都市ボル出身の34歳は、「Smile Again Africa Development Organization」(SAADO)というNGOの創設者兼最高責任者で、自らも人道主義者を代表する人物です。

1990年代初頭、第二次スーダン内戦が南部地域を襲い、恐怖と殺戮が繰り広げられました。

 

エリヤはボル(Bor)を離れ、東部赤道州の茂みに避難し、その後国連WFPのフィールドモニターとして、かつて追いかけた車と同じような旅に出たのです。

 

「私はスーダン南部の紛争地帯や茂みの中で3年間を過ごし、後にスーダンの「ロスト・ボーイズ」として知られるようになった他の一人で避難したの未成年者たちと合流するまで放浪しました」と彼は言います。

 

エリヤをはじめとする約2万人の子どもたちは、当時の南部スーダンの農村地帯で、戦争によって家を失ったり、孤児になったりしていました。ロスト・ボーイズと呼ばれる彼らは、何千人もの人びとが何年にもわたって保護されてきたエチオピアとケニアの一番近い難民キャンプへの危険な旅に出ました。

 

生き延びようと努力する彼らは、武装集団の格好の標的となり、エリヤを含む多くの子どもたちが少年兵として徴用されました。1994年、7歳だったエリヤは、なんとか脱出し、ケニアへの国境を越えました。何日も歩いた後、彼は(ケニアにある)カクマ難民キャンプに到着しました。 

Figure 1- Elijah (center) with friends in Kakuma
カクマ難民キャンプでエリヤ(中央)と仲間たちPhoto: Supplied

カクマでの成長

「最初はグループに分けられ、シェルターで初対面の少年たちと共同生活をしていました」と彼は説明します。「その後、親戚や家族の友人を見つけ、彼らと一緒に住むようになりました。」

 

そして、食事の問題がありました。

 

「国連WFPから配給される食料だけで生活するのは大変なこともありました。でも、みんなで力を合わせて、家族で分け合うようになったら、だんだん楽になりました。キャンプに到着した子どもたちの多くは、栄養不良の症状が見られました。しかし、学校給食は重要な栄養源となったのです」。

 

「学校給食は栄養不良から救い、私たちの生活を変えてくれました」とエリヤは言います。「配給が減ると、学校には誰もいなくなります。子どもたちは夜6時まで食べずに学校にいて、空腹のまま家に帰ることはできないからです」。

 

2000年初頭、スーダンのロスト・ボーイズを再定住させるプロジェクトが、キャンプに新しい希望をもたらしました。約3,000人の子どもたちがアメリカへ渡ったのです。「アメリカへ行くということに興奮しました。私は新しい生活を始め、勉強を続ける準備ができていました」とエリヤは言います。しかし、9.11が起きました。「プログラムは完全に閉鎖され、私の希望も失われました。それから7年間、カクマは私の故郷となったのです」。 

 

内戦は2005年、包括和平協定の締結によってようやく終結しました。エリヤは南スーダンへの再定住を希望しました。

 

2007年、エリヤはUNHCRの飛行機で故郷に戻りました。ボルに定住し、そこでようやく両親と再会しました。

 

オンライン大学に入学し、経営学の学位を取得しました。2010年に卒業すると、国連WFPからフィールドモニターにならないかと誘われました。

 

「私の中には、人びとの自助努力に貢献したいとう強い思いがありました」と彼は言います。「13年間難民として生活し、食料、水、シェルター、保護、教育など、生きるための基本的なことをすべて人道支援に頼ってきた私自身が、人道支援の産物だったのです。ですから、私は人類に恩義を感じており、これを恩返しの機会だと考えていました」

 

そして、国連WFPの車の防弾窓の向こう側から、彼の国が独立を声高に叫ぶ中、走っていく子供たちを眺めていました。

Elijah celebrating the independence of South Sudan in 2011
2011年、南スーダンの独立を祝うエリヤ。Photo: Supplied

「南スーダンが独立したとき、私はまだ国連WFPで仕事をしていました。素晴らしい思い出があります。スーダンの国境でその知らせを受けたときは、喜びとショックと不信感が入り混じったような気持ちでした。一晩中お祝いをしましたが、南スーダンの旗を持っていたのは私一人だったので、パーティの主役でした」

 

飢餓と闘うための空中投下

 

国連WFPでの3年間の勤務の後、エリヤはセーブ・ザ・チルドレンやカトリック・リリーフなどの国際NGOで働き、経験の幅を広げました。「とてもいい経験でした。大きなNGOがどのように運営されているかを理解するのに役立ちました」と言います。

 

その後、友人たちがスマイル・アゲイン・アフリカ(SAADO)を設立するのをサポートしました。南スーダンで悲惨な食料危機が発生した2014年からは、国連WFPと提携し、食料支援と給食プログラムを実施しているスマイル・アゲイン・アフリカ(SAADO)でフルタイムで働いています。

 

2014年、困っている人に手を差し伸べるのに苦労したのを覚えています。アクセスも道路もなく、待ち伏せされる危険性も高かったです。そこで国連WFPが空から食料を投下するようになったのです。私は、空からの投下の必要性を強く訴えてきました。」

 

空からの投下は、陸路での輸送に比べて7倍のコストがかかるため、国連WFPにとって最後の手段となっています。

Elijah with the WFP Director of South Sudan Matthew Hollingworth
国連WFP南スーダン事務所マシュー・ホリングワース代表(左)とエリヤ。Photo: Supplied

やがてエリヤは、スマイルアゲインを、食料安全保障、生活、ジェンダー、教育、栄養に焦点を当てた、しっかりとした全国規模のNGOに変貌させました。

 

「私がSAADOの新しいCEOとして参加したとき、SAADOは1つのオフィスと7人のスタッフ、1台のコンピューターだけで、最初のプロジェクトは国連WFPから19,000米ドルの資金提供を受けたものでした。今では9つのオフィス、約600人のスタッフ、年間予算は900万ドルから1,100万ドルです。」

 

エリヤは、国連WFPがNGOパートナーのために開催するフォーラムやイベントには欠かさず参加しています。

 

「これらの協議は、SAADOのリーダーシップを形成するのにとても役立っています。より大きなネットワークを作り、国際的なアクターと話することができるようになったのです。

 

ローマで国連WFPのデイビッド・ビーズリー事務局長に会ったとき、「私のこれまでの人生は、ほとんどすべての面で国連WFPと関わってきました。受益者であり、スタッフであり、そして今、私はパートナーなのです。寄付者になるのはまだ先ですが...... それはまたの機会に。」

 

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