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波乱を糧とする戦略家~日本人職員に聞く

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, WFP日本_レポート

政策と緊急支援の両分野のベテラン職員、 三澤康志(みさわ・やすゆき)氏は国連WFPイラクの新たな5カ年計画について自信をのぞかせます。

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三澤氏(右)。同僚と共に。Photo: WFP/Photo Library

三澤康志氏は国連WFPで長きにわたり多様なキャリアを培ってきました。徳島県-日本の主要5島では最小の四国にあって、巨大な鳴門の渦潮の近くに位置する-で育った彼には、幼いころ自身の将来の姿を想像するのは難しかったのではないでしょうか・・・、特にイラク・バグダッドに在住する唯一の徳島県人になるなんて。そう聞かれた三澤氏は、いつもの落ち着いた様子でにこやかに答えました「どうでしょう、そうかもしれません。」

緊急支援から復興支援まで、様々な国での状況を潜り抜けることで、三澤氏は政策立案やプロジェクト管理を含む強固なスキルセットを構築するに至りました。

彼はこれまでの経験を生かし、最近まで国連WFPイラク事務所プログラムユニットの副リーダー職を務め、新規5カ年国家戦略計画(CSP)策定を監督しました。それは政策と緊急事態対応という異なるバックグラウンドを持つ三澤氏にとって、まさに適任のタスクでした。

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上と下:イラク、クルディスタン州ドゥホックのバーダラッシュ難民キャンプ。シリア北東部からやってきた難民の一家が、WFPから5人の3日分を賄うことができる緊急支援食料を受け取れます。 Photo: WFP/ Sharon Rapose
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三澤氏はそのキャリアをアジアでトップの航空貨物企業でスタートし、アジア諸国をめぐりプロジェクト管理の専門知識を培いました。関西学院大学で学士を取得した彼にとって、これは最良の経歴となるはずでした。「ただ、そこで何かが足りないと感じ始めたんです。」と彼は私に語りました。「常に、日本による開発支援に興味があったので、それで行政学の修士に出願することにしました。」そこで、彼はカリフォルニア州モントレーのミドルベリー国際関係学研究所で政策スキルを磨くところからはじめました。

卒業に際し、彼は国連ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO)に応募しましたが、面接段階で選考に漏れました。「実践的な開発経験をいくつか積むことを言われ、フィリピンのミンダナオにおいて活動する日本のNGOで働くポジションをどうにか確保することができました。」

「JPOでの不採用はとても残念でしたが、実はそれが最高の結果をもたらすことになりました。ミンダナオでは緊急事態へ直接対処する経験を得ることができました。また、妻に出会ったのもそこになります。彼女はフィリピン人女性で日本留学から帰国したばかりでした。彼女は日本語を忘れないように会話パートナーを探していたのです。」

2度目の応募で、三澤氏はJPOのポジションを獲得しました。「1994年のことでした。そして国連での最初の経験、それはメキシコシティーの国連WFPの小さなオフィスから始まりました。スタッフは7人しかおらず、殆どの時間を能力開発に費やしました。」三澤氏はその初期の経験に情熱を注ぎました。

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南スーダンでの三澤氏、キャリア初期の写真。 Photo: WFP/Photo Library

「少人数のチームでは様々な役割をこなさなければなりません。」彼は語ります。「もちろん、大規模な計画の一員となり取り組むことも大好きです、ただメキシコでは、発展途上にある国への理解、そして同国の自立に向けて国連WFPがどのように現地政府を支援可能で、またどう支援すべきか等、全業務を詳細にわたり学ぶことができました。」

彼は続けます「代表不在時には担当係官として、政策と管理それぞれで素晴らしい経験をいつでも積むことができましたよ。」中米での更なる3年ののち、スペイン語を取得したことで地域の人事担当官となった彼は人材開発、人員管理ならびにプロセス管理への専門性を養いました。

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イラクでの国連WFPによる支援は、食料配給時の瞳の虹彩スキャンによるID認証など、食料配給システムのデジタル化に向けた政府の能力開発を含みます。 Photo: WFP/Yousif Mirza

彼と家族はフィリピンの地へと戻る準備を整えていました。そのころ彼には幼い娘がおり、そして2000年、東ティモール危機が起きると彼は支援に手をあげました。

一家は東ティモールからやがてアフリカのエリトリア、アンゴラ、次いでミャンマーに赴き、その地で2008年にサイクロン・ナルギスの襲来をうけました。1週間もの間彼とその家族はわずかな水と食料のために奮闘し―WFPによる当月分の支援分配は機能していましたが―その中で三澤氏はWFPによる現地調達という革新的な方法を考案しました。

「緊急時には特に、事態への迅速な対応-起りうる結果を踏まえて、経験と知識に基づき素早く賢明な判断を下すこと、が求められます。」速く、常に人々の最善を念頭に置くこと、これが三澤氏について私が知る、そして尊敬する所以です。彼はサイクロンに被災した人々への食料確保の安定性を図る一方で、各NGOとの新たなパートナーシップも拡大しました。

ミャンマーへの赴任後、彼はタイにおける国連WFPの地域局への着任を任命されましたが、これは彼の若々しい家族にとって願ってもない体験となりました。2011年には東日本大震災の支援のため、彼は想定外となる3カ月の出向を命じられました。

「WFPは[物流]集積コーディネーターのような役割を果たす目的で自分を派遣しました。」その役割は多岐にわたり-目的に応じた多種多様の組織の取りまとめから、救援要請の声に応えるところにまで及びました。

人々からのSOSには「屋根の上に大型船が乗っかっています」や、「家の中に列車の車両があります」のようなものが含まれていました。「自分は、母国の日本で支援活動をする機会があるとは考えたことがなかったので、自身のもつ緊急時における経験を役立てられることは非常に嬉しかったです。私達は救援が必要とされるところへ、最適かつ最も役立つ物資やボランティア人員の割り当てを実施しました。」

三澤氏は最終的にソマリア、南スーダン、アフガニスタンそしてイラクに赴き、次々と、より困難なポストに就任することになりました。そしてバグダッドへ赴任するころには、WFPイラクで新規国家戦略計画を策定するには十分すぎるほどの経験を蓄えていました。デザインされた5カ年計画は柔軟かつ想定外の事象へ対応可能となっており、最終的な自立に向けた実践的な支援を可能にします。

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イラク・ニネワのシンジャーの農家ザリファは国連WFPレジリエンスチームによる協力のもと初めて温室にエンドウ豆を栽培しました。レジリエンスは三澤氏の計画のなかでも重要な柱です。 Photo: WFP/Sharon Rapose

イラクの新規国家戦略計画(CSP)は3つの大きな柱:危機対応(Crisis response)、レジリエンス/回復力・強靭性(Resilience)、能力開発(Capacity building)-食料配給公共流通システムのデジタル化に関する技術的専門知識を含む-を基に構築されています。三澤氏はCSPの制定を、そのはじまりから導入まで1年以上にわたり監督しました。飢餓ゼロ戦略レビュー(The Zero Hunger Strategic Review)-国連WFPはイラク政府および国際乾燥地帯農業研究センターの間に提携を結んでいます―にてCSPの初期案は支持を受けました。これにより、CSPの完全文書化が、予算プロセス草案と並行して成されました。最終草案は11月に開催されたローマにおけるWFP理事会で承認されました。

三澤氏と彼のチームはCSPが適応のために変化を遂げても、そのシステムが実用に即し続けることを確認済みです。「堅牢なるCSPは単なる理論以上のものです。今後の5年における所定期間にイラクにおいて実行可能かつ変更可能な具体的なプランなのです・・・これはイラクにとって、とても強力な戦略になるでしょう。」

イラクにおける国連WFPの新しい国家戦略計画は1月1日に施行されました。WFPを通じたイラクの人々への継続的な支援に対し、日本政府へ感謝の意を表します。