Skip to main content

8月19日は世界人道の日 中央アフリカで奮闘する日本人職員

8月19日は世界人道の日 中央アフリカで奮闘する日本人職員
, WFP日本_レポート

8月19日は「世界人道の日」。人を助けるということを考えよう、という日です。2003年8月19日、イラクのバグダッドで国連本部が爆破され、支援活動に従事していた22名が命を落としたことから、その死を悼み、人道精神を受け継ぐために制定されました。 国連WFPでは、日本人職員が世界中で支援現場の最前線に立ち、日々、飢えに苦しむ人たちの助けになりたいと奮闘しています。 中央アフリカ共和国に勤務する若手職員、佐藤さや香をご紹介します。

1*KHHrPzjxEAhZ6vHOrqPsMA.jpeg
中央アフリカに勤務する佐藤さや香。最愛の娘を抱いて ©WFP

-中央アフリカではどんな仕事をしていますか?

中央アフリカは世界で最も貧しい国のひとつです。内戦で家を失った人、隣国の紛争から逃がれてきた人、栄養不足で命を落とすかもしれない赤ちゃんとその母親など、やっと生きている人たちが食糧を必要としています。国連WFPの学校給食がなければ食べるものがない子供たちもいます。これらのニーズに応えるべく、中央アフリカ事務所では今年、48万人への食糧支援を予定しています。

私は各国政府からいただいた拠出金を管理し、どのタイミングでどのような食糧をどの国から何トン購入するかを計画する仕事をしています。国連WFPは、支援活動を行う他の国連機関や非政府組織に対して、旅客・物資の航空輸送サービスや情報通信サービスも提供しているので、これらのプロジェクトの資金も管理しています。また、WFP中央アフリカ事務所全体の報告書の作成や、広報も担当しています。

-仕事で一番大変なのはどんなことですか?

中央アフリカは政情が不安定です。2012年12月以降、「セレカ」という反政府勢力が武装蜂起し、国土の半分以上を占拠しました。2013年1月に中央アフリカ政府とセレカの間でいったんは停戦合意が結ばれましたが、3月には再び激しい戦闘が勃発。セレカが首都バンギを制圧し、政府のボジゼ大統領が国外に脱出しました。

WFP中央アフリカ事務所は比較的小規模な国事務所でしたが、政変を受けて、支援のニーズと仕事量が急増したのが大変でした。私だけではなく、ひとりひとりが3人分の業務を抱えるようになったので、現在人員を増やし、拡大しているところです。

また中央アフリカは今でも治安が悪いため、国連職員はホテルで暮らしています。私が生活しているホテルから事務所までの距離は数百メートルですが、強盗、恐喝事件が相次いでいるため、そのような距離でも事務所の車で移動することが義務付けられています。

-国連WFPで働き始める前は何をしていましたか?

27歳のときに外務省が実施しているJPO派遣制度(将来的に国際機関で働くことを希望する若手邦人を日本政府が選出し、各国際機関に派遣するという制度)の試験に合格し、国連WFPの職員になる機会を得ました。それまでは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のインターンや国連WFPのコンサルタントなど、国際機関で経験を積みました。また法律外交修士号を取得するため、アメリカへ留学していたこともあります。

-どうやって国連WFPに入ったのですか?

大学4年生のときにWFP日本事務所でインターンシップを経験したのがきっかけです。願書をポストに投函したときは懸賞に応募するような気持ちでしたが、書類審査を通過し面接に呼ばれ、まさかと思いました。10年前のことです。当時の日本事務所代表にキャリアアドバイザーになっていただき、今にいたります。

-国連WFPで仕事をしていて一番感動したときの経験を教えて下さい。

現地視察で支援を受け取る人たちと直接触れ合うときが、最も心が動かされます。先日、食糧配布の現場で、肩から背中にかけて生々しい傷を負った人を見かけました。私が傷に目をとめたことに気づき、その人は話しかけてきました。

「セレカが我々の村を襲った日、私の家は略奪に遭った。15人ほどの兵士が突然やってきて、家にあったもの、家畜、すべてを奪っていった。それでも兵士たちは期待するほど略奪できなかったことが不満で、私が意識を失うまで殴る蹴るを繰り返した。妻と子供たちは間一髪、山中へ避難させたので無事だった。私は農民だが、怪我をしてからは思うように体が動かない。家族を養えなくなり、絶望的だった。しかし、国連WFPから食糧をいただき、家族は生きながらえた。早く健康を取り戻して、一からやり直したい。国連WFPに助けてもらったことを私は一生忘れない。」と言っていました。

同じ現場で、臨月の未亡人にも出会いました。セレカの兵士がヤギを略奪しようとしたところ、夫が抵抗し、目の前で殺されたというのです。この日、食糧を受け取りにきた人々のほとんどが妊産婦や幼児連れの母親でした。国連WFPは最も支援を必要とする弱い立場の人々に、食糧を届けます。

-一番怖かった経験を教えて下さい。

国連では、あまりに治安が悪化し、業務が遂行できないほどであると判断された場合、職員の一部を国外へ退避させることがあります。私は中央アフリカで勤務する前にイエメンで国外退避を経験したことがあり、中央アフリカで二度目の国外退避を経験することとなりました。が、中央アフリカでは突然治安が悪化し、夫と生後5ヶ月の娘も一緒にいたので、大変心配でした。国外退避の日、空港職員が「反政府勢力は首都までやってくる。ここに残って俺たちと一緒に死んでくれ」と言い、荷物検査で私の家族を止めようとしました。また退避してから、私と家族が暮らしていた中央アフリカの家は略奪に遭いました。その瞬間に居合わせていたらどうなっていたかを想像し、ぞっとしました。

現在は家族を日本に残し、単身赴任しています。家族の安全を確保でき、ほっとしています。家庭と仕事の両立は課題ですが、これからもその時々で最良の選択をしていきたいと思います。

-人道支援者とはどういう人のことだと思いますか?

見たこともない誰かの幸せを心から願う人は人間らしいと思います。人道支援者は手助けをする相手の生まれ、話す言葉、価値観を選びません。必要があれば、どこへでも飛んでいきます。国連WFPではそのような人間らしい心に満ちた人道支援者がたくさん働いていて、世界の食糧問題に、毎日真剣に向き合っています。

-自分は人道支援者だと思いますか?

私は世界平和をただ漠然と願うのではなく、具体的に行動したかったので、人道支援を仕事として選びました。初めて海外へ出た頃は、日本との違いばかりが気になりました。また豊かな国で育った私が、貧しさに苦しむ人々を本当に理解することができるのか、と悩むこともありました。しかし、今は「どこへ行っても、同じものは同じ」と感じます。人は食べないと死に、この事実に例外はないからです。飢餓撲滅に貢献することが自分の使命であると信じて、これからも人道支援に携わる者として成長していきたいと思います。